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M-Tea*5_21-日本歴史物語〈上〉(六)喜田貞吉 2012.12.15 第五巻 第二一号 日本歴史物語〈上〉(六) 喜田貞吉 五十、蝦夷地(えぞち)の経営 五十一、前九年の役(一) 五十二、前九年の役(二) 五十三、後三年の役 五十四、平泉の隆盛(りゅうせい) 五十五、古代史の回顧(かいこ) 先生や父兄の方々に imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 【週刊ミルクティー*第五巻 第二一号】 (http //www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/215405) ※ クリックするとダウンロードサイトへジャンプします。 (916KB) 定価:200円 p.159 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(103項目)p.740 ※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。 ※ 現代表記版に加えてオリジナル版を同時収録。 ※ JIS X 0213・ttz 形式。 ※ この作品は青空文庫にて校正中です。著作権保護期間を経過したパブリック・ドメイン作品につき、引用・印刷および転載・翻訳・翻案・朗読などの二次利用は自由です。 (c) Copyright this work is public domain. けんちゃなぺこぽん。週刊おきゅぱい宇宙軍。 平安朝のはじめのころは、朝廷のご威光が盛んで、坂上田村麻呂や文室(ぶんやの)綿麻呂の蝦夷征伐があり、これがために蝦夷の地がおおいに開けてまいり、蝦夷人もだんだん日本民族の仲間になってきましたことは、前に申したようなしだいでありましたが、なにぶんにも国の政治が乱れて、地方が騒々しくなり、武士や海賊が盛んにおこるという時代になりましては、蝦夷のいた奥羽地方だとて、その影響を受けないではいられません。第五十七代陽成(ようぜい)天皇の御代(在位八七六~八八四)には、今の秋田県あたりにいる蝦夷がそむきまして大騒ぎがおこりました。しかしこれというのも、もともと国司の政治が悪いからであります。はじめは蝦夷のいきおいがつよく、官軍も容易にこれをしずめることができなかったのですが、藤原保則(やすのり)という人が新たに国司になって、よくこれを諭し、よい政治をおこないますと、かれらはことごとく降参して、おとなしくなりましたのを見ても、その罪がおもに国司にあったことがわかりましょう。(略)(「五十一、前九年の役(一)」より) そのうちに、いよいよ頼義(よりよし)二度目の国司の任期がすみまして、新しい国司がやってまいりました。しかしこんな騒ぎの最中でやって来たもののなんともしてみようがありませぬ。さっそく都へ逃げて帰りました。そこで頼義は、今はどうでも自分の手で安倍氏を滅ぼして、自分の命ぜられたつとめを完(まっと)うして、新しい国司に引きわたさなければならぬと、しきりに清原氏の助けを催促します。武則(たけのり)も頼義の誠意に感じて、一万余人という大勢の仲間をつれてやってまいりました。こうなってはさすがの貞任も、とてもかないっこはありません。(略)最後に今の盛岡市の近所の、厨川(くりやがわ)の館までも攻め落とされ、貞任は殺されて、弟の宗任(むねとう)らは降参しました。頼義が国司となってから十二年かかって、やっと安倍氏征伐の目的を達することができたのです。世間でこれを奥州十二年の合戦と申しました。奥州とは今の福島・宮城・岩手・青森の四県の地方のことで、むかしはこれを陸奥といい、出羽とあわせて奥羽地方というのです。(「五十二、前九年の役(二)」より) ※ 蝦夷=「えぞ」の読みは底本のとおり。 5_21.rm (朗読:RealMedia 形式 472KB、3 49) milk_tea_5_21.html (html ソーステキスト版 212KB) 喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939(明治4.5.24-昭和14.7.3) 歴史学者。徳島県出身。東大卒。文部省に入る。日本歴史地理学会をおこし、雑誌「歴史地理」を刊行。法隆寺再建論を主張。南北両朝並立論を議会で問題にされ休職。のち京大教授。 ◇表紙:恩地孝四郎 おんち こうしろう ◇図版:小村雪岱 こむら せったい ◇参照:Wikipedia 喜田貞吉、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、『日本人名大事典』(平凡社)。 底本:『日本歴史物語(上)No.1』復刻版 日本兒童文庫、名著普及会 1981(昭和56)年6月20日発行 親本:『日本歴史物語(上)』日本兒童文庫、アルス 1928(昭和3)年4月5日発行 http //www.aozora.gr.jp/index_pages/person1344.html NDC 分類:K210(日本史) http //yozora.kazumi386.org/2/1/ndck210.html 難字、求めよ 藤原経清 ふじわらの つねきよ 三浦平次郎為次 みうら へいじろう ためつぐ 天下大赦 てんか たいしゃ 希婦の細布 けふの ほそぬの ※『日本史広辞苑』『国史大辞典』『日本人名辞典』いずれも「藤原経清」の項なし。 むしとりホイホイ 頼義《よりいへ》 → 頼義《よりよし》 【「よし」か】 雲慶 → 運慶 【運か】 ※『吾妻鑑』に「雲慶」あり(国史) 糠部《ぬかべ》 → 糠部《ぬかのぶ》 【「のぶ」か】 ところから → ところから、 【、】 以上4件。底本は左辺のとおり。 スリーパーズ日記* 九州の松浦党(肥前松浦) 渡辺氏=松浦氏、安倍氏。 村上水軍(瀬戸内海) 熊野水軍(紀州) → 九鬼水軍 大河『平清盛』で加藤浩次扮する海賊・兎丸が登場したものの、当時の実在する水軍との関係描写が希薄だったのが、かえすがえすも残念。現在の歴史学では謎のままということなんだろうか。 清盛、平家と親しかったのは、どの水軍か。複数の水軍との親密度のちがいや確執があったはず。位置的には村上水軍が最も近いだろうけれども……。 馬と弓と養蚕の源氏に対し、船と交易の平氏のイメージがある。とくにこの時代、長い平安の世から乱世への転換期、馬具や武具・刀剣の需要が急激に増大したはず。加えて、造船・社寺建築・仏像作製などがさかんだったことを考えると、時代をあらわすキーワードの上位に「鉄製品」があげられるんじゃないだろうか。 木造船、木造建築、製鉄、鉄製品……、ここから推測できるのは、当時の西日本、平家の領有地では急激に山林が伐採されただろうということ。東日本、鎌倉に政権が移った背景のひとつに、山林の疲弊度合いの差があった可能性。どちらが優れていたか、、、ということではなく、どちらの山林が余力を有していたか。 もうひとつ。 飛鳥時代に船団を組んで蝦夷・粛慎討伐にあたったのが阿倍比羅夫。平安中期、奥州で源頼義・義家親子に討たれたのが安倍一族。そのさいに筑前宗像に配流されたのが安倍貞任の弟、宗任。 「山」のイメージの強い奥州安倍氏だけれども、勢力を持っていたのが奧六郡から北上川沿いであったこと、ついで奥州藤原氏が都とひんぱんに交流していたこと、宗任の子孫が松浦水軍に加わったことなどを考えあわせると、九州松浦党、奥州安倍氏、あべ、あんべ、あまべ、海部・海人部、阿倍比羅夫……「海」の類推説は強烈に捨てがたい。 12.18 米長邦雄、死去。69才。 2012.12.15:公開 おきゅぱい迷人。 目くそ鼻くそ、しだひろし/PoorBook G3'99 転載・印刷・翻訳は自由です。 カウンタ: - 名前 コメント
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MT*2_47-「日本民族」とは何ぞや/本州における蝦夷の末路 喜田貞吉 2010.6.12 第二巻 第四七号 「日本民族」とは何ぞや 本州における蝦夷の末路 一 緒言 二 蝦夷馴服(じゅんぷく)の歴史 三 遺物・遺跡より見たる蝦夷 四 北海道のアイヌ民族 五 近世まで保存せられた本州の蝦夷 六 蝦夷と日本民族 七 日の本将軍 八 蝦夷と武士道 九 東人(あずまびと) 十 武士の起原と蝦夷 十一 結語 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 【週刊ミルクティー*第二巻 第四七号】 (http //www.dl-market.com/product_info.php?products_id=71431) ※ クリックするとダウンロードサイトへジャンプします。 (788KB) 定価:200円(税込) p.224 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(122項目)p.679 飛び出せ! 週刊ミルクティー* この点については、さすがに日の本将軍ともいわれた安東氏の態度は見上げたものです。安倍氏にしても、清原氏にしても、藤原氏にしても、みなそれぞれに名家の姓を名乗っておりますが、安東氏のみはそれをいたしません。彼はみずから土人の後裔たることを立派に認めております。その先祖は長髄彦(ながすねひこ)の兄安日(あび)というもので、神武天皇ご東征以前の、大和の領主であったといっております。長髄彦は神武天皇に反抗して殺されましたが、兄の安日は奥州外が浜へ流されて、子孫蝦夷の管領となったといっております。その後裔なる秋田実季(さねすえ)のごときは、自分の家が天地開闢以来の旧家だということをもって、家の誇りといたしているのであります。この系図は徳川時代になって、秋田実季が自身調査をかさねて編纂したもので、その安倍という本姓は、先祖の安日という名を取ったというのでありますが、しかしその説の由来はすこぶる古いもので、すでに津軽浪岡家の『永禄日記』十年(一五六七)の条に、同地岩木神社の祠官阿部氏が、やはり同様の系図を持っていたおもむきに見えております。(略)しかしながら、仮に安東氏が土人の後裔であるとしましても(略)血においてはつとに混淆してしまい、生活その他においても、もちろん日本民族になってしまっているのであります。(略)徳川時代において三春五万六千石の大名たる秋田氏をもって、日本民族でないというものがありましょう。蝦夷と日本民族との関係の、きわめてなだらかに推移してまいりましたことは、この一例をもってしても思いなかばに過ぎるでありましょう。 2_47.rm (朗読:RealMedia 形式 408KB、3'18'') 喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939(明治4.5.24- 昭和14.7.3) 歴史学者。徳島県出身。東大卒。文部省に入る。日本歴史地理学会をおこし、雑誌「歴史地理」を刊行。法隆寺再建論を主張。南北両朝並立論を議会で問題にされ休職。のち京大教授。 ◇参照:Wikipedia 喜田貞吉、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。 底本 「日本民族」とは何ぞや 日本民族の概念を論ず 底本:「先住民と差別 喜田貞吉歴史民俗学傑作選」河出書房新社 2008(平成20)年1月30日初版発行 初出:「民族と歴史 第一巻第一号」 1919(大正8)年1月 本州における蝦夷の末路 底本:「先住民と差別 喜田貞吉歴史民俗学傑作選」河出書房新社 2008(平成20)年1月30日初版発行 初出:「東北文化研究 第一巻第四号」 1928(昭和3)年12月 NDC 分類:210(日本史) http //yozora.kazumi386.org/2/1/ndc210.html NDC 分類:380(風俗習慣.民俗学.民族学) http //yozora.kazumi386.org/3/8/ndc380.html 年表 本州における蝦夷の末路 宝亀一一(七八〇) 伊治公呰麿、暴動を起こし按察使・紀広純を殺す。 延暦年間(七八二〜八〇六) 坂上田村麿の遠征。胆沢城に鎮守府を設けて蝦夷地経営・東北守備の根拠地となし、さらにその北の紫波郡の地に志波城を築く。 弘仁(八一〇〜八二四)の頃 文室綿麿が遠征。今の岩手県二戸郡福岡町付近の爾薩体・都母あたりまで従える。和賀、稗貫、紫波の三郡を設置。 貞観一一(八六九) 新羅の海賊船が二艘、九州博多の海岸をかすめた時、太宰府の軍人は誰もよう出かけない。付近に移住していた蝦夷人をさしむけたところ、容易にこれを撃退。これから太宰府海岸の防御には、蝦夷人をして当たらしめる。 元慶年間(八七七〜八八五) 出羽の乱。今の秋田県地方の蝦夷が国司の悪政をうらんで暴動を起こす。御物川から北の地方をもって、蝦夷の国として要求。藤原保則、赴任し善政をほどこす。大乱を鎮定。 延喜(九〇一〜九二三)のころ 藤原利仁(利仁将軍)、蝦夷を征伐。事跡は不明。 永承六(一〇五一)〜康平五(一〇六二) 前九年の役。 永保三(一〇八三)〜寛治元(一〇八七) 後三年の役。 鎌倉時代の末ごろ 津軽に蝦夷の乱がおこる。幕府、容易に鎮定することができず。詳細は不明。 鎌倉・室町時代のころ 安東氏、津軽地方に勢力を有して日の本将軍とよばれる。 津軽浪岡家『永禄日記』一〇年(一五六七)の条 同地岩木神社の祠官阿部氏が、秋田実季(本姓、安倍)と同様、先祖の安日という名を取ったという系図を持っていたおもむきに見える。 寛文(一六六一〜一六七三)頃 津軽藩領分内に蝦夷として認められたもののいた村が、外が浜に十六か村、戸数が四十二軒。たいていは日本人と同じ名をつけていた。それを区別するために、時としてその名の下に犬という字をつける。最北の六か村のものは、このとき日本人になるのを嫌って逃げ出す。 宝暦六(一七五六) 津軽藩「この年、外が浜の狄(えびす)シャモとなる」。蝦夷を平民の戸籍に編入し、普通の日本人と同一の待遇を与える。蝦夷村が解放。 文化三(一八〇六) 津軽藩の蝦夷、はじめて最後の解放を受ける。 嘉永五(一八五二) 吉田松陰、津軽の地を視察。『東北遊日記』を書く。 大正一三(一九二四) 喜田貞吉、以来、東北大学へ勤務。年中の大部を東北地方に暮らす。 昭和三(一九二八) 七月十一、十二日 仙台放送局「本州における蝦夷の末路」放送。 難字、求めよ。 崇祭 祖祢 そでい 王道融泰 人禽 日の本将軍 虜陣戎庭 窮説 橘正一 スリーパーズ日記 六月一二日(土)快晴。県内で今年はじめて三〇度をこえ、真夏日となる。三週間に一度の恒例のブックオフ・図書館参り。 都城で口蹄疫確認。本日より緊急に宮崎県内の図書館・博物館など文化施設・スポーツ施設も閉鎖という。動物園ならわかるが、図書館の閉鎖の意味がわからん。(1) 正常な判断能力がマヒするほどに行政の意志決定が疲労・どうしたらいいのかわからなくなっている可能性。すべてのものを疑ってしまう状態。(2) 収集している新聞や週刊誌・過去の関連記録などへのアクセス数が増加。農家や業者が特定され非難を受ける可能性への配慮。(3) 口蹄疫の伝染媒介を図書館利用者・貸し出し図書がおこなっている可能性。 図書館情報へのアクセス規制というと、未成年者の加害事件にともなう実名報道の問題と、2008年の元厚生事務次官宅連続襲撃事件にともなう名簿閲覧の制限が記憶に新しい。が、情報コントロールは相互疑心を強くするもので、良策かは疑問。 空気感染、同一水源の汚染、人間媒介……? 体液感染の可能性がもっとも高いような気がするのだが、ハエ・アブ・カラス、か?。 2010.6.14:公開 ♪ハゲに牛のヨダレをあびせろ。ニッポン牛のヨダレ化計画。 目くそ鼻くそ、ケツ毛ボーボー亀仙人。/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 カウンタ: - 名前 コメント
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M-Tea*5_20-日本歴史物語〈上〉(五)喜田貞吉 2012.12.8 第五巻 第二〇号 日本歴史物語〈上〉(五) 喜田貞吉 四十一、地方政治の乱(みだ)れ(一) 四十二、地方政治の乱れ(二) 四十三、地方政治の乱れ(三) 四十四、地方政治の乱れ(四) 四十五、武士・僧兵・海賊のおこり(一) 四十六、武士・僧兵・海賊のおこり(二) 四十七、武士・僧兵・海賊のおこり(三) 四十八、武士・僧兵・海賊のおこり(四) 四十九、平安朝の仏教 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 【週刊ミルクティー*第五巻 第二〇号】 (http //www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/215404) ※ クリックするとダウンロードサイトへジャンプします。 (952KB) 定価:200円 p.168 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(91項目)p.749 ※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。 ※ 現代表記版に加えてオリジナル版を同時収録。 ※ JIS X 0213・ttz 形式。 ※ この作品は青空文庫にて校正中です。著作権保護期間を経過したパブリック・ドメイン作品につき、引用・印刷および転載・翻訳・翻案・朗読などの二次利用は自由です。 (c) Copyright this work is public domain. けんちゃなぺこぽん。週刊おきゅぱい宇宙軍。 じっさい平安朝時代には、貴族と平民とのあいだにはたいそうな隔(へだ)たりがありました。貴族たちが京都で好き勝手な栄華にふけっているあいだに、平民は地方で国司らにいじめられていました。そこで平民らは、自分で国民たるの権利を捨てて諸国に浮浪するというようなありさまでしたから、世の中の人気もしだいに荒くなります。活きるに困っているものは、活きるためにはやむを得ず悪いこともします。どうでこの世の中に活き長らえていたからとて、その末がよくなるという見込みがあるではなし、またすでに悪いことをしている身であれば、死んだのちには地獄へ落ちると仏教は教えています。こうなってはどんなものでも、自然やけになってくる。(略) このような気の毒な人たちを救うて、たといその日その日の暮らしは苦しくても、せめては心だけにでもゆっくりした安心をあたえて、無暗(むやみ)にやけにならぬようにと親切に教えをひろめたのは、念仏の宗旨(しゅうし)でした。口に南無阿弥陀仏ととなえて、阿弥陀如来にすがりさえすれば、どんな罪の深いものでも、死んだのちにはみな必ず極楽へ行くことができるという教えです。 はじめてこの教えを民間に説きすすめたのは、空也上人でありました。東には平将門、西には藤原純友(すみとも)の謀反があったのち、世の中がますます騒がしくなり、食うに困るような浮浪民がそこにも、ここにも、うようよしているというころに、空也は盛んにその仲間に説いてまわったものですから、いたるところに信者がたくさんにできました。平民らはこれがために、ひどくやけにもならず、救われて安心を得たものがはなはだ多かったのです。 そののち平安朝も末になり、源平二氏の戦争が長いあいだ続いて、武士は多くの人を殺し、その罪のむくいがおそろしくなる。また一般の民衆は、多年の戦争に苦しんで、ますます貧乏のどん底に落ちこむというように、多数の人がひどく悩んでいるころに、法然上人が出て、盛んにこの教えをひろめました。(略)(「四十九、平安朝の仏教」より) 5_20.rm (朗読:RealMedia 形式 484KB、3 55) milk_tea_5_20.html (html ソーステキスト版 224KB) 喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939(明治4.5.24-昭和14.7.3) 歴史学者。徳島県出身。東大卒。文部省に入る。日本歴史地理学会をおこし、雑誌「歴史地理」を刊行。法隆寺再建論を主張。南北両朝並立論を議会で問題にされ休職。のち京大教授。 ◇表紙:恩地孝四郎 おんち こうしろう ◇図版:小村雪岱 こむら せったい ◇参照:Wikipedia 喜田貞吉、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、『日本人名大事典』(平凡社)。 底本:『日本歴史物語(上)No.1』復刻版 日本兒童文庫、名著普及会 1981(昭和56)年6月20日発行 親本:『日本歴史物語(上)』日本兒童文庫、アルス 1928(昭和3)年4月5日発行 http //www.aozora.gr.jp/index_pages/person1344.html NDC 分類:K210(日本史) http //yozora.kazumi386.org/2/1/ndck210.html 難字、求めよ 非人法師 ひにん ほうし 西船東馬 せいせん とうば むしとりホイホイ 一且《いつたん》 → 一旦《いったん》 【旦か】 主從《しゆうじゆう》 → 主従《しゅじゅう》 【う】 釆《さい》 → 采《さい》 【采】双六の采 燒《や》き討《う》き → 焼き討ち 【ち】 以上4件。底本は左辺のとおり。 スリーパーズ日記* 十六日(日)晴れ。天童駅までひさしぶりのダッシュ。村山市、甑葉(しょうよう)プラザ。県埋蔵文化財センター発掘調査速報会。参加者二〇〇名ぐらいか。 縄文時代、高畠町押出(おんだし)遺跡。ネフライト(ひすい)製のケツ状耳飾り、縄紐、彩漆土器など。彩漆土器は片手のひらにおさまるくらいのかわいらしい浅鉢・椀状で、ふちまわりに穴が点々と一周あけられている。赤漆。内側には木のけずりくずのような繊維がつめられている。漆保存のため、水につけられた状態で展示。 口の周りに孔が一周する彩漆土器……という解説を聞いた瞬間に思い浮かんだのは、小林達雄『縄文の世界』(朝日選書、1996.7)が紹介している有孔鍔付土器。栽培作物の種子壷説(藤森栄一)、果実酒の醸造器説(武藤雄六・長沢宏昌)などあるらしいが、山内清男は土器太鼓説をとなえ、打楽器奏者の土取利行や小林達雄らがその説を支持している。 「穴にひもを通して皮をはって太鼓をつくったとする説を読んだことがあるが……」と、若い展示員に話をふってみたところ、にがい顔で首を横にふった。「太鼓として使うには小さすぎる」との返答。たしかにそのとおり。口径一〇センチほど、深さが五センチぐらい。けれども、小さいことは太鼓説を否定する条件になりうるだろうか。 大太鼓のような野太く、遠くまで大音量が響きわたる音量はないだろうけれども、甲高く、携帯に適し、小集団が陶酔するにはふさわしいような気もする。タヌキ、キツネのような小動物の皮を使える利点もある。鼓(つづみ)説。 青空。白くなった葉山が西側に大きく見える。はるか南に陽がおちる。おだやかな夕暮れ。 12.7(金)17 18 青森・岩手・宮城、震度5弱。津波警報。 震源三陸沖。震度、村山4、天童3、東京4。M7.3(=阪神大震災)。 県内、停電なし。 12.13 「製本かい摘みましては」四釜さんって、山形そだちだったのか。。。 12.15 13 30、天童弱震。 ブラックおきゅぱいの、7つのおきゅぱいな習慣。 マイライフ・アズ・ア・ブック。 2012.12.15:公開 おきゅぱい迷人。 目くそ鼻くそ、しだひろし/PoorBook G3'99 転載・印刷・翻訳は自由です。 カウンタ: - 名前 コメント
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六十年の回顧 三六 論文著作年譜 喜田貞吉 【テキスト中に現れる記号について】 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#ここから底本凡例より] 〔〕:編者注 [#ここから底本凡例より] なお今日からすれば使用をつつしむべき差別用語が用いられているが、本著作集においては喜田貞吉の思想、史観を明らかにするうえからあえて改めず、原文のままとした。ただし限定された地名については若干の配慮をほどこした。 [#底本凡例ここまで] 三六 論文著作年譜 すでに述べたごとく自分には単行本としての著作はきわめて少い。その理由はこれもすでに述べたごとく、自分の研究がいつもとかく不十分がちで、その時にはベストと思うて発表したものであっても、やがては新しい資料の発表によって、後に改訂増補の必要を感じて来るからである。この場合これを改訂増補することは、単行本では容易でない。さりとて発表前に十分の調査を重ねて、もはや一指も加うべからずというようなものに仕上げることは、同時にもはやその研究を打切るということにもなって、自分にとっては実際出来ない相談だ。そのうちにはまた研究が新しい方面に移って、前にせっかく調査したことも忘れてしまうという虞れがある。そこでともかくもその当時においてこれと信ずるだけのものは、出来次第便利な活字の援けを借りて学界に発表し、これによって一方には識者の注意を受けてさらに研究を重ねる。一方にはさらに新資料を得るに従って訂正増補を加える。かくてこそ学問は進歩すべきもので、それには雑誌上の発表が一番よい。というのが自分の方針であった。それというのも実を告白すれば、自分は明治四十五年に『読史百話』という史談集を三省堂から発行したことがあり、その中に犬神人に関して飛んてもない無知の醜態を暴露して、柳田国男君から御親切なる注意を戴き、はなはだしく恐縮したことが確かに動機をなしたのであった。もちろんかかる失態は、単に恐縮するだけでは相済まぬ。ただ識者から自分の無知を笑われるだけのことならば、自分は小さくなって我慢もしようが、もし万一それを読んで真面目に信ずるような人が一人でもあったならば、それこそ誠に申訳がない。自分の学的良心がそれを許さないのである。そこで取りあえずこの問題に関しては、早速さらに研究を重ねて、その年九月の『歴史地理』第二〇巻第三号の誌上において、「犬神人」の題下にこれを訂正しておいたことであったが、しかしそれで果して『読史百話』の読者のすべてにそれを見ていただくことが出来たとは言われない。自分の責任はために解除されたとは言えないのである。それ以来自分ははなはだしく単行本としての著書に臆病になった。そしてその代りまでに、粗製濫造品を雑誌上に発表することはますます勇敢になった。ともかくその当時においてこれと信ずるところを発表すればよい。そして後にその不備を発見すれば、発見したたびにこれを補う。誤謬に気付けば気付いたたびにこれを正す。これによってさらに読者からしばしば有益なる資料の供給に預かる。誤解に対して懇切なる注意をも与えられる。しかしてそれによって自分の研究がますます精緻の域に進み得たことを自覚している場合が少からぬのである。学問上のことに限っては、いったん発表した説だからとてそれを固執する必要はない。新研究による変説改論はむしろ歓迎すべきである。これが自分の主張であった。それ以来ここに二十余年、自分が無遠慮に新聞や雑誌上で発表したところ、論文・雑録を通じて大小無慮約一千篇、これに当初以来のものを加うれば、すべてで一千三百余篇の多きに達し、口の善くない友人某君をして、喜田は濫書症に罹っているのだと言わしめたほどであった。その代りに単行本の方は、いかに切なる書肆の請求があっても、ほとんどそれを拒絶し通して今日に及んでいるのである。もし強いてその間における著書とでもいうべきものを求めるなら、大正四年に当時『歴史地理』を発行して貰っていた日本学術普及会の依頼により、歴史講座中の一篇として『帝都』という小冊子を書いたのと、これもそのころ親友有吉宮崎県知事の依頼を受けて、今の宮崎中学校長日高重孝君の協力のもとに、『日向国史』(大正七年完成昭和六年刊行)を著したのがあるくらいのもの、このほかにも昭和三年中に、アルスの児童文庫のために日本歴史物語古代の部を書いたことがあるにはあるが、これは子供相手のきわめて卑近な読み物で、あえて著作などと言うべきほどのものではない。近くは昨昭和七年に、杉山寿栄男君助力のもとに、『日本石器時代植物性遺物図録』というものを編纂した。これはわが考古学界空前の新発見資料を広く学界に紹介し、相ともに研究を進めたいがためであったが、その印刷はつとに完成しておりながら、別冊としてこれに添附すべきはずの論文が出来ぬがために、いまだあまり頒布するには至っておらないのである。それというのも、畢竟ずるに自分が単行本としての著作に臆病ながためであるにほかならぬ。実を白状すれば、この植物性遺物の研究については、自分が右の図録を出版した後になって、さらに種々の貴重なる新発見があり、ために学説の一部に変更を要するものもあれば、それを合理づけるためにはさらに史的研究を重ぬるを必要とする場合もあって、しかもそれがうまく纏まらぬがために、自分の学的良心は、いまだ自分をして安心して筆を執らしむるに至っていないのである。もしこれが雑誌上での発表であったならば、例のごとく自分は遠の昔において、最も勇敢にその所見を披瀝して、爾後新発見のあったたびごとに、逐次これが訂正増補を試みていたはずであった。しかもこれはすでに図録の出版も完成して、引続き解説を発表すべく公約してある責任上、そう永く等閑に附する訳には行かぬ。この『六十年の回顧』が終ったならば、次には早速これが起稿に着手して、その疑わしきはこれを闕くとしても、ともかくも予約の責を果したいと思っている。 ひとり右の植物性遺物に関する研究のみならず、そのほかに自分には着手しながら未完成のままに放置せられた諸研究がはなはだ多い。またすでに発表した諸論文等についても、その後の研究と、学界の進歩とによって、改訂増補を要するものがさらにはなはだ多い。またすでに雑誌上で逐次改訂増補を加えた過去の諸論文についても、自分自身の手でさらにこれを整理すべき必要あるものが少くないのである。しかしながら取る年には争い難く、自分の筆は近来はなはだしく鈍って来た。自分の研究的努力ももはや行き詰まりに近づきつつあることを自覚した。自分の余命が将来いつまで続き得るかはもちろんこれを予期し難く、日暮れ道遠しの感は切々として自分に逼って来た。もはやこれまでのごとく暢気なことをいってはおられぬ。今や自分は自分の過去二十余年に渉って頑強に固執した従来の方針を放棄して、逐次既往の業績に整理を加うるを必要とするの時期に到達したのである。すなわちその必要上から、試みに過去三十余年に渉って書き散らしたところのものを尋ね出して、これを年代順に列挙してみた。いわゆる論文著作年譜なるものである。もちろんこの中には幾回にも重複したものもあれば、今においてはもはや全然その保存の要なきものも多く、またみずから顧みて、こんなものを発表したかと羞恥の念を禁ずる能わざるものも少くないが、研究発表上自分が過去に辿って来た道筋を明かにせんがために、恥を忍んで出来得る限りこれを網羅することにしたのである。なおこの以外にも、三省堂『日本百科大辞典』や、平凡社『大日本百科事典』などのために執筆したものの中には、相当研究を重ねたものも少くないはずではあるが、たいていはこれを漏らすことにした。その他起稿したままに未発表のもの、また採録するに堪えずして漏らした小篇もかなり多い。所在を知るを得ずしてやむを得ず年譜に加え得なかったものもある。心づかずして脱漏したものもまたすこぶる多かろう。それは発見するに随って補うことにする。また手許にその書なくして記述に誤謬あるものも多かろうことを断っておく。 ちなみにいう。左記目録の中には講演に関する新聞記事、あるいは自分の校閲を経ぬ講演筆記の類も交っているが、その中にはきわめて杜撰にして、読者を誤ることの少からぬものもないではない。「文責在記者」など書いてあるものにことにそれが多いが、これは講演者にとっても、また読まされるものにとっても、迷惑千万の次第である。しかし自分のこの年譜が、もともと自分の過去の回顧のためであり、他日自分の研究を整理するうえの便宜を図るためであるの意味から、なるべくこれらをも漏らさず収録することにしたのである。 〔本巻の巻末に「著作日録」を付載するので、『六十年の回顧』「論文著作年譜」中の「目録」は省略することにした〕 ※ 底本の編注は省略しました。 底本:『喜田貞吉著作集 第一四巻 六十年の回顧・日誌』平凡社 1982(昭和57)年11月25日発行 初出:『還暦記念 六十年の回顧』 1933(昭和8)年4月発行 (底本 p622、書誌一覧より) 入力:しだひろし 校正:2008年6月12日現在、未登録・校正待ち xxxx年xx月xx日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http //www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 2010.3.5:更新 ※ カウンタを設置しました。 しだひろし/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 カウンタ: - 編集モードを変更。 -- しだ (2010-03-27 04 51 26) 名前 コメント
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M-Tea*3_5-鹿踊りのはじまり 宮沢賢治/奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉 2010.8.28 第三巻 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治/奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治 奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉 一 緒言 二 シシ踊りは鹿踊り 三 伊予宇和島地方の鹿の子踊り 四 アイヌのクマ祭りと捕獲物供養 五 付記 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 【週刊ミルクティー*第三巻 第五号】 (http //www33.atwiki.jp/asterisk99?cmd=upload act=open pageid=215 file=milk_tea_3_5.zip) ※ クリックするとダウンロードを開始します。 (524KB) 月末最終号:無料 p.113 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(34項目)p.146 ※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。 飛び出せ! 週刊ミルクティー* 奥羽地方には各地にシシ踊りと呼ばるる一種の民間舞踊がある。地方によって多少の相違はあるが、だいたいにおいて獅子頭を頭につけた青年が、数人立ちまじって古めかしい歌謡を歌いつつ、太鼓の音に和して勇壮なる舞踊を演ずるという点において一致している。したがって普通には獅子舞あるいは越後獅子などのたぐいで、獅子奮迅・踊躍の状を表象したものとして解せられているが、奇態なことにはその旧仙台領地方におこなわるるものが、その獅子頭に鹿の角(つの)を有し、他の地方のものにも、またそれぞれ短い二本の角がはえているのである。 楽舞用具の一種として獅子頭のわが国に伝わったことは、すでに奈良朝のころからであった。くだって鎌倉時代以後には、民間舞踊の一つとして獅子舞の各地におこなわれたことが少なからず文献に見えている。そしてかの越後獅子のごときは、その名残りの地方的に発達・保存されたものであろう。獅子頭はいうまでもなくライオンをあらわしたもので、本来、角があってはならぬはずである。もちろんそれが理想化し、霊獣化して、彫刻家の意匠により、ことさらにそれに角を付加するということは考えられぬでもない。武蔵南多摩郡元八王子村なる諏訪神社の獅子頭は、古来、龍頭とよばれて二本の長い角が斜めにはえているので有名である。しかしながら、仙台領において特にそれが鹿の角であるということは、これを霊獣化したとだけでは解釈されない。けだし、もと鹿供養の意味からおこった一種の田楽的舞踊で、それがシシ踊りと呼ばるることからついに獅子頭とまで転訛するに至り、しかもなお原始の鹿角を保存して、今日におよんでいるものであろう。 3_5.rm (朗読:RealMedia 形式 436KB、3'33'') 宮沢賢治 みやざわ けんじ 1896-1933(明治29.8.27-昭和8.9.21) 詩人・童話作家。岩手県花巻生れ。盛岡高農卒。早く法華経に帰依し、農業研究者・農村指導者として献身。詩「春と修羅」「雨ニモマケズ」、童話「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」など。 喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939(明治4.5.24-昭和14.7.3) 歴史学者。徳島県出身。東大卒。文部省に入る。日本歴史地理学会をおこし、雑誌「歴史地理」を刊行。法隆寺再建論を主張。南北両朝並立論を議会で問題にされ休職。のち京大教授。 ◇参照:Wikipedia 宮沢賢治、喜田貞吉、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。 ◇表紙絵:葛飾北斎「日新除魔」『北斎美術館 第三巻』(集英社、1990.8)より。 底本 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治 底本:「注文の多い料理店」新潮文庫、新潮社 1990(平成2)年5月25日発行 1997(平成9)年5月10日17刷 初出:「イーハトヴ童話 注文の多い料理店」盛岡市杜陵出版部・東京光原社 1924(大正13)年12月1日 http //www.aozora.gr.jp/cards/000081/card43760.html NDC 分類:K913.8(日本文学/小説.物語) http //yozora.kazumi386.org/9/1/ndck913.html 奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉 底本:「先住民と差別 喜田貞吉歴史民俗学傑作選」河出書房新社 2008(平成20)年1月30日初版発行 初出:「歴史地理 第五八巻第四号」 1931(昭和6)年10月 http //www.aozora.gr.jp/index_pages/person1344.html NDC 分類:386(風俗習慣.民俗学.民族学/年中行事.祭礼) http //yozora.kazumi386.org/3/8/ndc386.html 難字、求めよ いからだ ぎんがぎが 男高里の池 当麻郷なる香島香取二神子の社 舞子頭 獅子頭か? 示表 条刻 竹条 疑問点 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治 めつけもの → めっけもの 【っ、か?】 スリーパーズ日記 宮沢賢治「鹿踊りのはじまり」 肢・脚を、足に、 廻るを、回るに、 遁げを、逃げに、 疋を、匹に、 円くを、丸くに、 愕ろきを、驚きに、 跳び、を、飛びに、 かあいそうを、かわいそうに、 たったを、立ったに、以上置きかえた。 二十五日(水)夜、近くの公園にてハンドベルの演奏会。望月。 土曜、『龍馬伝』再放送。実際の龍馬は、福山よりもむしろ大泉洋のような三の線だったんじゃないかと想う。久木綾子『禊の塔』読了。科織りのような粗っぽさ、愛らしさ、実直さ。快作。『トップランナー』松井冬子みたいに眼前につきつけられると、「ごめんなさい」と頭をたれるしかない。おっぱいやおしりを追っかけてしまうしようもない性(さが)はイノセントなんですが(泣)。おかげかどうか、久しぶりに夢を見る。 「GIF の代替」というネガティブな位置づけで出会ったせいか、対応を明示していないソフトやサイトもあるせいか、正直、PNG の積極利用にはためらいがあった。が、しかし、その先入観をおおいに改める。圧縮率・色数保持は、むしろ GIF より優れている。今後、M-Tea* の圖版は PNG と JPEG の二本立てになる見込み。 2010.8.30:公開 2010.8.31:更新 The Poor of Insensitivity。 目くそ鼻くそ/鈍感の貧困。PoorBook G3'99 転載・移植・印刷は自由です。 カウンタ: - NDC 分類「分野別リスト」へのURLを修正、ttz ファイルを第二刷に変更、milk_tea_3_5.zip ファイルを差しかえました。 -- しだ (2010-08-31 00 37 23) 名前 コメント
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M-Tea*5_14-日本歴史物語〈上〉(三)喜田貞吉 2012.10.27 第五巻 第一四号 日本歴史物語〈上〉(三) 喜田貞吉 二十一、外人の渡来と外国文化の輸入(五) 二十二、外人の渡来と外国文化の輸入(六) 二十三、大臣(おおおみ)と大連(おおむらじ) 二十四、仏教の伝来 二十五、聖徳太子と文化の進展(上) 二十六、聖徳太子と文化の進展(下) 二十七、大化の新政(上) 二十八、大化の新政(中) 二十九、大化の新政(下) 三十、朝鮮半島諸国の離反 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 【週刊ミルクティー*第五巻 第一四号】 (http //www33.atwiki.jp/asterisk99?cmd=upload act=open pageid=370 file=milk_tea_5_14.zip) ※ クリックするとダウンロードを開始します。 (940KB) 月末最終号:無料 p.184 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(105項目)p.589 ※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。 ※ 現代表記版に加えてオリジナル版を同時収録。 ※ JIS X 0213・ttz 形式。 ※ この作品は青空文庫にて入力中です。著作権保護期間を経過したパブリック・ドメイン作品につき、引用・印刷および転載・翻訳・翻案・朗読などの二次利用は自由です。 (c) Copyright this work is public domain. すべてのタブレットは消耗品である。週刊くじらの歌、ほげ~♪ 応神天皇の御代に渡来した阿知使主(あちのおみ)の仲間は、これももとはシナ人ではありますが、朝鮮の大同江付近、すなわち漢の時代の楽浪、魏の時代の帯方から来たもので、古くここに移住していた漢人の子孫でありましょう。わが国ではこれを弓月君(ゆつきのきみ)の仲間の秦人に対して、漢人といっています。文字に「漢人」と書くのは、シナ漢代の人の移住民の子孫だからでありましょうが、これをわが国で「あやびと」といったのは、かれらがいろいろの模様のついた織り物を織ったためであります。(略) 漢人の仲間は、秦人が衰えて方々に散らばったのとは様子が違って、都に近い大和の国の高市郡(たかいちごおり)にまとまって住んでおりました。今から一一〇〇年ばかり前までも高市郡の住民は十中の八、九まで、みなこの仲間であったというほどにも、かれらはここで繁昌したのでした。しかしこれらの多数の人々も、いつの間にか、みな日本民族の仲間になり、ほかの人たちと少しも区別のないものになってしまっているのです。 高市郡の中では、飛鳥が漢人の中心地でありました。そしてここが久しくわが国における文化の起原地となりました。のちに仏法が伝わってきましたときにも、まずここに立派な寺ができます。しぜん、政治の上にも社会の上にも勢力を有することとなり、おしまいには、これまで御代ごとにたいてい場所が変わっておった都までが、この飛鳥にきまってしまうというほどの勢いとなりました。 (略)のちに第三十三代推古天皇の御代に、聖徳太子のお指図でシナへ留学しました僧侶や学生なども、やはりみなこの漢人の仲間でした。(「二十一、外人の渡来と外国文化の輸入(五)」より) 5_14.rm (朗読:RealMedia 形式 356KB、2 53) milk_tea_5_14.html (html ソーステキスト版 252KB) 喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939(明治4.5.24-昭和14.7.3) 歴史学者。徳島県出身。東大卒。文部省に入る。日本歴史地理学会をおこし、雑誌「歴史地理」を刊行。法隆寺再建論を主張。南北両朝並立論を議会で問題にされ休職。のち京大教授。 恩地孝四郎 おんち こうしろう 1891-1955(明治24.7.2-昭和30.6.3) 版画家。東京生れ。日本の抽象木版画の先駆けで、創作版画運動に尽力。装丁美術家としても著名。 小村雪岱 こむら せったい 1887-1940(明治20.3.22-昭和15.10.17) 日本画家、挿絵画家。本名、安並泰輔。埼玉県川越生まれ。時代風俗の考証に通じ、のち舞台装置家、新聞雑誌の挿絵画家として活躍、その繊細で鮮烈な描線のかもし出すエロチシズムで、広くファンを熱狂させた。挿絵は泉鏡花作『日本橋』、邦枝完二作『お伝地獄』など。(人名) ◇参照:Wikipedia 喜田貞吉、恩地孝四郎、小村雪岱、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、『日本人名大事典』(平凡社)。 底本:『日本歴史物語(上)No.1』復刻版 日本兒童文庫、名著普及会 1981(昭和56)年6月20日発行 親本:『日本歴史物語(上)』日本兒童文庫、アルス 1928(昭和3)年4月5日発行 http //www.aozora.gr.jp/index_pages/person1344.html NDC 分類:K210(日本史) http //yozora.kazumi386.org/2/1/ndck210.html 難字、求めよ 谷宮門 はざまのみかど 高武蔵守 こうの むさしのかみ むしとりホイホイ 薨去《ごうきよ》 → 薨去《こうきょ》 【「こ」か】 敏達《びたつ》 → 敏達《びだつ》 【「だ」か】 以上2件。底本は左辺のとおり。 スリーパーズ日記* 本書を含む「日本児童文庫」シリーズを読んでいる最中、この感覚は何かに似ている、何だろう……と記憶をたどってみてわかった。映画『インディー・ジョーンズ』だ。魔宮の内部にはさまざまなトラップがしかけられていて、一歩一歩、たしかめながら前進する。さながら、明治維新(1868)と現代(2012)とのちょうど中間地点を舞台としたロールプレイング・アドベンチャー・ゲーム。 昭和初期のナショナリズムや軍国主義のトラップはまだわかりやすい。専門分野ごとの当時の科学的成果のトラップが随所にあるし、著者個人の見解のトラップももちろんある。社会的・時代的な通俗概念のちがいというトラップもあるし、それが児童・生徒向けに平易な言葉づかいで表現されているというのも大きなくせもの。「平易」というのはストレートでわかりやすい反面、ことばの意味が大きくもなれば小さくもなる一方で、えてして直截的な表現になって、豊富なふくみがそぎ落とされる。「わかった、理解した」つもりにもなりやすい。真綿につつまれたトラップの数々。加えて旧字旧かな・総ルビ。 難解、……ではけしてない。が、そのぶん危険な取り扱い注意のフラジャイルなシリーズ。おっ、なんかおもしろそうなキャッチコピーできた! 赤坂憲雄・小熊英二(編)『「辺境」からはじまる東京/東北論』(明石書店、2012.5)読了。 小熊(p.325)「原発推進側の人が、推進をやめたら人材が入ってこない。入ってこなくなったら廃炉さえできないと言っていましたが、そうとも限らない。『自分が最後の原発の扉を閉める』というのは、立派な仕事だと思いますね。」 「潟にもどすという思想」(p.330)。 10.27(土)晴れ。東北文化の日。県立博物館、特別展「出羽国成立一三〇〇年」。青磁器の破片だらけ。米沢城跡から出土のわきざし、サビのない金属。三島通庸の辞世の句など。玄人好みの展示だけれど、、、。 10.28(日)雨。東北民俗芸能大会。天童市民文化会館。観客より無粋な警備員のほうが多い気配。存在を意識させるような警備は、興をそぐに十分。 「想定」の貧困、「想定外」という言いわけの貧困。 すべての育毛薬は消耗品である。 ♪サガエでございま~す。 10月26日、原子力の日。 10.28 バンクーバー北西海上、M7.7。被害なし。 10.30 昨夜、仙台空港滑走路付近、230kg不発弾。戦時中のものか。 2012.10.31:公開 玲瓏迷人。 目くそ鼻くそ、しだひろし/PoorBook G3'99 転載・印刷・翻訳は自由です。 カウンタ: - 名前 コメント
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M-Tea*5_22-日本歴史物語〈上〉索引 喜田貞吉 2012.12.22 第五巻 第二二号 日本歴史物語〈上〉索引 喜田貞吉 語句索引 人名索引 地名一覧 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 【週刊ミルクティー*第五巻 第二二号】 (http //www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/215406) ※ クリックするとダウンロードサイトへジャンプします。 (292KB) 定価:200円 p.159 / *99 出版 ※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。 ※ 現代表記版に加えてオリジナル版を同時収録。 ※ JIS X 0213・ttz 形式。 ※ この作品は青空文庫にて校正中です。著作権保護期間を経過したパブリック・ドメイン作品につき、引用・印刷および転載・翻訳・翻案・朗読などの二次利用は自由です。 (c) Copyright this work is public domain. けんちゃなぺこぽん。週刊おきゅぱい索引くん。 語句索引 【あ】 アイヌ 青丹よし あおによし 県主 あがたぬし 安達絹 あだちぎぬ 天つ神 あまつかみ 天津神 あまつかみ 阿弥陀 あみだ 阿弥陀如来 あみだ にょらい 天叢雲剣 あめのむらくものつるぎ 漢人 あやびと/あやひと 【い】 軍神 いくさがみ 一丈六尺 いちじょうろくしゃく → 丈六 一天万乗 いってん ばんじょう 磐井の乱 いわいのらん 院政 いんせい 【う】 右京 うきょう 氏寺 うじでら 右大臣 うだいじん 【え】 蝦夷民族 えぞ みんぞく 蝦夷 えぞ/えみし 蝦夷人 えぞじん/えぞびと エタ エトリ 【お】 奥州十二年の合戦 おうしゅう じゅうにねんのかっせん → 前九年の役 大臣 おおおみ 大連 おおむらじ 臣 おみ 【か】 海賊 かいぞく 華族 かぞく 鎌倉幕府 かまくら ばくふ 守 かみ 神代 かみよ 課役 かやく/かえき 唐金 からかね 青銅 からかね/せいどう 河内の文氏 かわちの ふみうじ 河原者 かわらもの 漢 かん 漢文学 かん ぶんがく 韓国併合 かんこく へいごう 漢人 かんじん 関白 かんぱく 願文 がんもん 官吏 かんり 【き】 魏 ぎ 帰化 きか 紀元節 きげんせつ 希婦 きふ → 機婦(きふ)か? 金鵄 きんし 金鵄勲章 きんし くんしょう 今上天皇 きんじょう てんのう 【く】 公家華族 くげ かぞく 草薙剣 くさなぎのつるぎ 国つ神・地祇 くにつかみ 国津神 くにつかみ 国造 くにのみやつこ 口分田 くぶんでん 熊襲 くまそ 郡司 ぐんじ 郡領 ぐんりょう 【け】 家人 けにん 毛人 けびと/もうじん 希婦の細布 けふの ほそぬの 『憲法十七条』 けんぽう じゅうしちじょう 【こ】 皇威 こうい 皇運 こううん 公爵 こうしゃく 皇太后 こうたいごう 上野介 こうづけのすけ 国司 こくし 国府 こくふ 国分僧寺 こくぶん そうじ 国分寺 こくぶんじ 後三年の役 ごさんねんのえき 『古事記』 こじき 越人 こしびと 戸籍 こせき 国教 こっきょう 近衛 このえ 小屋者 こやもの 【さ】 祭政一致 さいせい いっち 榊 さかき 坂の者 さかのもの 左京 さきょう 左大臣 さだいじん 侍 さぶらい/さむらい 山窩 さんか さんかもの → 山窩 三種の神器 さんしゅの じんぎ 【し】 紫宸殿 ししんでん 七大寺 しちだいじ 地頭 じとう 四道将軍 しどう しょうぐん 信夫毛地摺 しのぶ もじずり 忍摺・信夫摺 しのぶずり 釈迦如来 しゃか にょらい 出家 しゅっけ 荘園・庄園 しょうえん 荘園主 しょうえんぬし 上皇 じょうこう 正倉院 しょうそういん 浄土 じょうど 浄土真宗 じょうど しんしゅう 浄土宗 じょうどしゅう 丈六 じょうろく 新華族 しんかぞく 秦韓人 しんかんじん 真言宗 しんごんしゅう 真宗 しんしゅう → 浄土真宗 秦人 しんじん/はたびと 神兵 しんぺい 臣民 しんみん 進物 しんもつ 【す】 隋 ずい 水軍 すいぐん 介 すけ 朱雀大路 すざか/すざく おおじ 朱雀門 すざかもん/すざくもん 生美絹 すずしのきぬ 【せ】 征夷大将軍 せいい たいしょうぐん 西船東馬 せいせん とうば 清涼殿 せいりょうでん 石器時代 せっき じだい 摂政 せっしょう 施薬院 せやくいん 前九年の役 ぜんくねんのえき 千僧供養 せんそう くよう 遷都 せんと 【そ】 僧兵 そうへい 即位の大礼 そくいの たいれい → 即位の礼 即位の礼 そくいのれい 【た】 大化 たいか 大化改新 たいかの かいしん 大化の新政 たいかの しんせい → 大化改新 大官 たいかん 大極殿 だいごくでん 大赦 たいしゃ 大織冠 だいしょくかん/たいしょっかん 大内裏 だいだいり 『大宝律令』 だいほう/たいほう りつりょう 『大宝令』 だいほうりょう/たいほうりょう 内裏 だいり 高天原 たかまがはら/たかまのはら 橘 たちばな 【ち】 中宮 ちゅうぐう 徴発 ちょうはつ 鎮守府 ちんじゅふ 鎮守府将軍 ちんじゅふ しょうぐん 鎮定 ちんてい 【つ】 【て】 帝都 ていと 天下大赦 てんか たいしゃ 天子 てんし 天壌無窮 てんじょう むきゅう 天孫降臨 てんそん こうりん 天孫民族 てんそん みんぞく 天台宗 てんだいしゅう 天然痘 てんねんとう 【と】 痘瘡 とうそう 銅鐸 どうたく 堂塔 どうとう 十種神宝 とくさの かんだから 常世 とこよ 常世の長鳴鳥 とこよの ながなきどり 土人 どじん 十握剣 とつかのつるぎ 豊葦原の瑞穂の国 とよあしはらの みずほのくに 【な】 内地 ないち 内地人 ないちじん 南無阿弥陀仏 なむあみだぶつ 奈良時代 なら じだい 奈良朝 ならちょう 奈良朝時代 ならちょう じだい → 奈良時代 南大門 なんだいもん 南都 なんと 【に】 『日本書紀』 にほん しょき 日本人 にほんじん 女御 にょうご 人皇 にんのう 【ぬ】 糠部の駿馬 ぬかべの しゅんめ 【ね】 練り絹 ねりぎぬ 念仏 ねんぶつ 【の】 【は】 破戒 はかい 幕府 ばくふ 秦 はた 秦人 はたびと → 秦 初国・肇国 はつくに 隼人 はやと/はやひと 万世一系 ばんせい いっけい 【ひ】 悲田院 ひでんいん 非人 ひにん 非人法師 ひにん ほうし 【ふ】 武官 ぶかん 武家華族 ぶけ かぞく 武家政治 ぶけ せいじ 武士 ぶし 仏教 ぶっきょう 船軍 ふないくさ 文氏 ふみうじ 浮浪 ふろう 浮浪民 ふろうみん 【へ】 平安時代 へいあん じだい 平安朝 へいあんちょう 平安朝の時代 へいあんちょうの じだい → 平安時代 平治の乱 へいじのらん 鐸 ベル/たく 【ほ】 法王 ほうおう 法皇 ほうおう 保元の乱 ほげん/ほうげんのらん 細布衣 ほそぬのごろも 【ま】 町割 まちわり 【み】 勅 みことのり 御陵 みささぎ/ごりょう 水がかり みずがかり? 水呑み百姓 みずのみ びゃくしょう 都遷し みやこ うつし 【む】 武蔵守 むさしのかみ 謀叛・謀反 むほん 連 むらじ 【め】 【も】 捩摺 もじずり 【や】 八坂瓊曲玉 やさかにの まがたま 安国 やすくに 八咫烏 やたがらす 八咫鏡 やたのかがみ 八岐の大蛇/八岐大蛇 やまたのおろち 日本民族 やまと みんぞく 大和の文氏 やまとのふみうじ 山法師 やまほうし 【ゆ】 弭 ゆはず 【よ】 要害 ようがい 【ら・り・る・れ・ろ】 【わ】 ワニザメ milk_tea_5_22.html (html ソーステキスト版 80KB) 喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939(明治4.5.24-昭和14.7.3) 歴史学者。徳島県出身。東大卒。文部省に入る。日本歴史地理学会をおこし、雑誌「歴史地理」を刊行。法隆寺再建論を主張。南北両朝並立論を議会で問題にされ休職。のち京大教授。 ◇表紙:恩地孝四郎 おんち こうしろう ◇参照:Wikipedia 喜田貞吉、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。 底本:『日本歴史物語(上)No.1』復刻版 日本兒童文庫、名著普及会 1981(昭和56)年6月20日発行 親本:『日本歴史物語(上)』日本兒童文庫、アルス 1928(昭和3)年4月5日発行 http //www.aozora.gr.jp/index_pages/person1344.html NDC 分類:K210(日本史) http //yozora.kazumi386.org/2/1/ndck210.html 難字、求めよ むしとりホイホイ スリーパーズ日記* 念願だった語句索引・人名索引が完成! 武田祐吉『校註古事記』の索引に触発された。文学作品や短文作品にはいらないだろうけれども、連載物で、実在の登場人物や地域名、事件、専門用語などが出てくるばあい、インデックスがあるのとないのとでは大違い。 大佛次郎『天皇の世紀』は十一巻まであって、最終巻末に詳細なインデックスがついている。司馬遼太郎『街道をゆく』シリーズも、並製本版の最終巻にはシリーズ総索引がある。たとえば、「公現能久(こうげんよしひさ)親王」や「覚王院義観(ぎかん)」はどの巻に登場するのか。あるいは登場しないのか。どれくらい記述があるのか。日光の「輪王寺(りんのうじ)」は、どの巻に出てくるのか。 索引があることで、なにがわかるのか。 ・探している項目があるかどうか。 ・どこにあるか。巻数、ページや行位置。 ・どれくらい記述があるのか。(出現・記述の頻度) ・なんと読むのか。(五十音順配列から想像もできる) このうち2番と3番は、今回は省略した。だから、本来の索引にくらべると魅力が半減することはたしか。それでも用意する意味はあると思う。たくさんの本を読みたいばあい、一冊一冊をていねいに通読できないばあい。それは、紙の本であっても電子本であっても同じはず。ひとりひとり、読書できる時間は無限のようであって無限じゃないし、一生に出会える本の数も無限のようであって無限じゃあない。 これまでも各号ごとに人名一覧や語句一覧は用意していたわけだから、それをシリーズで統合、五十音順にならべなおし、重複項目を削除、若干の微調整……と、こんなかんじでつくることができる。とはいうものの、作りたい作りたいと思ってて、なかなか作れなかったこともじじつ。この点、見積もりがあまかった。「情報のかたまり」のわけだから、読みなおし、該当本文にあたりなおし、語句の調べなおし、記憶の忘却……と、本文作業以上に神経と時間をつかうことも判明。 ※ ConvChar 0.8.2 のならべかえ(ソート)機能を使うと、索引用の五十音順配列には難あり。清・濁音順になってしまう。ex) 「ごいちじょう てんのう」は「こうあん てんのう」の前にあるべきはずだが、「こ」から始まる語句がすべて配列された後に「ご」から始まる語句が配列されてしまう。イレギュラー「ぬながわひめ」も発見。原因不明。ソートは King'sEdit2.0 で処理した。 ※ 地名は五十音順よりも、都道府県・国ごとの一覧にとどめてみた。 12.18 米長邦雄、死去。69才。 2012.12.24:公開 おきゅぱい迷人。 目くそ鼻くそ、しだひろし/PoorBook G3'99 転載・印刷・翻訳は自由です。 カウンタ: - 名前 コメント
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MT* vol.1(2008下半期・2009上半期) バックナンバー一覧 号数 著者名 著者名かな 生年-没年 作品名 創刊号 和田万吉 わだ まんきち 1865-1934 竹取物語 第二号 島津久基 しまづ ひさもと 1891-1949 竹取物語小論 第三号 橘 純一 たちばな じゅんいち 1884-1954 竹取物語の再検討(一) 第四号 橘 純一 たちばな じゅんいち 1884-1955 竹取物語の再検討(二) 〃 与謝野晶子(訳)/紫式部 よさの あきこ 1878-1942 源氏物語「絵合」 第五号 島津久基 しまづ ひさもと 1891-1949 古代・中世の「作り物語」 〃 島津久基 しまづ ひさもと 1891-1949 散逸物語三つ 〃 島津久基 しまづ ひさもと 1891-1949 昔物語と歌物語 〃 島津久基 しまづ ひさもと 1891-1949 平安朝文学の弾力 第六号 小熊秀雄 おぐま ひでお 1901-1940 マナイタのばけた話 〃 坪井正五郎 つぼい しょうごろう 1863-1913 コロボックル北海道に住みしなるべし 〃 坪井正五郎 つぼい しょうごろう 1863-1913 石器時代総論要領 〃 宮本百合子 みやもと ゆりこ 1899-1951 親しく見聞したアイヌの生活 〃 宮本百合子 みやもと ゆりこ 1899-1951 風に乗って来るコロポックル 第七号 工藤梅次郎 くどう うめじろう 1887-1941 カナメの跡 〃 工藤梅次郎 くどう うめじろう 1887-1941 シペ物語 〃 坪井正五郎 つぼい しょうごろう 1863-1913 コロボックル風俗考(一〜三) 第八号 坪井正五郎 つぼい しょうごろう 1863-1913 コロボックル風俗考(四〜六) 第九号 坪井正五郎 つぼい しょうごろう 1863-1913 コロボックル風俗考(七〜十) 第十号 喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939 土蜘蛛種族論につきて 〃 喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939 日本太古の民族について 〃 喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939 日本民族概論 第十一号 喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939 吉野の国巣と国樔部 〃 喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939 猪名部と佐伯部 〃 喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939 東北民族研究序論 第十二号 喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939 日高見国の研究 第十三号 喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939 夷俘・俘囚の考 第十四号 喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939 東人考 第十五号 喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939 奥州における御館藤原氏 第十六号 喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939 考古学と古代史 第十七号 喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939 遺物・遺蹟と歴史研究 〃 喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939 奥羽北部の石器時代文化における古代シナ文化の影響について 〃 喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939 日本における史前時代の歴史研究について 第十八号 喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939 「あばた」も「えくぼ」、「えくぼ」も「あばた」——日本石器時代終末期—— 〃 喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939 日本石器時代の終末期について 第十九号 喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939 銅鐸民族研究の一断片 〃 喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939 本邦における一種の古代文明——銅鐸に関する管見—— 第二〇号 喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939 「鐵」の字の古体と古代の文化 〃 喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939 石上神宮の神宝七枝刀 〃 喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939 八坂瓊之曲玉考 第二一号 浜田青陵 はまだ せいりょう 1881-1938 博物館(一) 第二二号 浜田青陵 はまだ せいりょう 1881-1938 博物館(二) 第二三号 浜田青陵 はまだ せいりょう 1881-1938 博物館(三) 第二四号 浜田青陵 はまだ せいりょう 1881-1938 博物館(四) 第二五号 浜田青陵 はまだ せいりょう 1881-1938 博物館(五)* 第二六号 幸田露伴 こうだ ろはん 1867-1947 墨子(一)* 第二七号 幸田露伴 こうだ ろはん 1867-1947 墨子(二)* 第二八号 幸田露伴 こうだ ろはん 1867-1947 墨子(三)* 第二九号 幸田露伴 こうだ ろはん 1867-1947 道教について(一)* 第三〇号 幸田露伴 こうだ ろはん 1867-1947 道教について(二)* 第三一号 幸田露伴 こうだ ろはん 1867-1947 道教について(三)* 第三二号 徳永 直 とくなが すなお 1899-1958 光をかかぐる人々(一)* 第三三号 徳永 直 とくなが すなお 1899-1958 光をかかぐる人々(二)* 第三四号 桑原隲蔵 くわばら じつぞう 1871-1931 東洋人の発明 * 第三五号 池田亀鑑(訳) いけだ きかん 1896-1956 堤中納言物語(一)* 第三六号 池田亀鑑(訳) いけだ きかん 1896-1956 堤中納言物語(二)* 第三七号 池田亀鑑(訳) いけだ きかん 1896-1956 堤中納言物語(三)* 第三八号 折口信夫 おりくち しのぶ 1887-1953 歌の話(一)* 第三九号 折口信夫 おりくち しのぶ 1887-1953 歌の話(二)* 第四〇号 折口信夫 おりくち しのぶ 1887-1953 歌の話(三) 〃 折口信夫 おりくち しのぶ 1887-1953 花の話 * 第四一号 福井久蔵 ふくい きゅうぞう 1867-1951 枕詞と序詞(一)* 第四二号 福井久蔵 ふくい きゅうぞう 1867-1951 枕詞と序詞(二)* 第四三号 中山太郎 なかやま たろう 1876-1947 死体と民俗 〃 中山太郎 なかやま たろう 1876-1947 本朝変態葬礼史 * 第四四号 芥川龍之介 あくたがわ りゅうのすけ 1892-1927 女体 〃 小熊秀雄 おぐま ひでお 1901-1940 女の情欲を笑う 〃 小熊秀雄 おぐま ひでお 1901-1940 乳房の室 〃 北原白秋 きたはら はくしゅう 1885-1942 接吻 〃 北原白秋 きたはら はくしゅう 1885-1942 接吻の後 〃 斎藤茂吉 さいとう もきち 1882-1953 接吻 * 第四五号 森 繁夫 もり しげお 1882-1950 幕末志士の歌 * 第四六号 斎藤茂吉 さいとう もきち 1882-1953 愛国歌小観 〃 斎藤茂吉 さいとう もきち 1882-1953 愛国百人一首に関連して 〃 斎藤茂吉 さいとう もきち 1882-1953 愛国百人一首評釈 * 第四七号 安藤正次 あんどう まさつぐ 1878-1952 「侍」字訓義考 〃 安藤正次 あんどう まさつぐ 1878-1952 多賀祢考 * 第四八号 折口信夫 おりくち しのぶ 1887-1953 ゴロツキの話 * 〃 折口信夫 おりくち しのぶ 1887-1953 幣束から旗さし物へ 第四九号 幸田露伴 こうだ ろはん 1867-1947 平将門 * 第五〇号 徳永 直 とくなが すなお 1899-1958 光をかかぐる人々(三)* 第五一号 徳永 直 とくなが すなお 1899-1958 光をかかぐる人々(四)* 第五二号 恩地孝四郎 おんち こうしろう 1891-1955 書籍の風俗 〃 徳永 直 とくなが すなお 1899-1958 「印刷文化」について * * 朗読(抄録)。 ※ 各号ごと、著者名の五十音順配列。 2009.8.5:公開 2011.7.23:更新 全角スペースを半角へ変更。 しだひろし/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 カウンタ: - 名前 コメント
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週刊ミルクティー*第四巻 第三八号 200円 M-Tea*4_38-特集・安達が原の黒塚 楠山正雄・喜田貞吉・中山太郎 特集・安達が原の黒塚 安達が原 / 八幡太郎 楠山正雄 安達が原の鬼婆々(他)喜田貞吉 安達が原の鬼婆々異考 中山太郎 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 【週刊ミルクティー*第四巻 第三八号】 (http //www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/193151) ※ クリックするとダウンロードサイトへジャンプします。 (564KB) 定価:200円 p.124 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(52項目)p.456 ※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。 むかし、京都から諸国修行に出た坊さんが、白河の関をこえて奥州に入りました。磐城国(いわきのくに)の福島に近い安達が原という原にかかりますと、短い秋の日がとっぷり暮れました。 坊さんは一日さびしい道を歩きつづけに歩いて、おなかはすくし、のどは渇(かわ)くし、何よりも足がくたびれきって、この先歩きたくも歩かれなくなりました。どこぞに百姓家でも見つけしだい、頼んで一晩泊めてもらおうと思いましたが、折(おり)あしく原の中にかかって、見わたすかぎりぼうぼうと草ばかり生いしげった秋の野末のけしきで、それらしい煙の上がる家も見えません。もうどうしようか、いっそ野宿ときめようか、それにしてもこうおなかがすいてはやりきれない、せめて水でも飲ましてくれる家はないかしらと、心細く思いつづけながら、とぼとぼ歩いて行きますと、ふと向こうにちらりと明かりが一つ見えました。 「やれやれ、ありがたい、これで助かった。」と思って、一生懸命明かりを目当てにたどって行きますと、なるほど家があるにはありましたが、これはまたひどい野中の一つ家で、軒はくずれ、柱はかたむいて、家というのも名ばかりのひどいあばら家でしたから、坊さんは二度びっくりして、さすがにすぐとは中へ入りかねていました。 (楠山正雄「安達が原」より) 4_38.rm (朗読:RealMedia 形式 336KB、2'43'') milk_tea_4_38.html (html ソーステキスト版 180KB) 楠山正雄 くすやま まさお 1884-1950(明治17.11.4-昭和25.11.26) 演劇学者・児童文学者。東京生れ。早大卒。近代劇の翻訳紹介に努め、内外の童話・神話・伝説を再話。著「近代劇十二講」。 喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939(明治4.5.24-昭和14.7.3) 歴史学者。徳島県出身。東大卒。文部省に入る。日本歴史地理学会をおこし、雑誌「歴史地理」を刊行。法隆寺再建論を主張。南北両朝並立論を議会で問題にされ休職。のち京大教授。 中山太郎 なかやま たろう 1876-1947(明治9.11.13-昭和22.6.13) 本名中山太郎治。栃木県足利郡梁田村(現足利市梁田町)生まれ。民俗学者。1914年、報知新聞社を退社。柳田国男を訪れ、同年、柳田の口利きで博文館へ入社。著『日本売笑史附吉原の沿革』『土俗私考』『日本民俗志』『日本婚姻史』『日本巫女史』『日本若者史』『日本民俗学事典』『万葉集の民俗学的考察』他。 ◇参照:Wikipedia 楠山正雄、喜田貞吉、中山太郎、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、『人物レファレンス事典』(日外アソシエーツ、2000.7)。 安達が原 底本:「日本の諸国物語」講談社学術文庫、講談社 1983(昭和58)年4月10日第1刷発行 http //www.aozora.gr.jp/cards/000329/card33208.html 八幡太郎 底本:「日本の英雄伝説」講談社学術文庫、講談社 1983(昭和58)年6月10日第1刷発行 http //www.aozora.gr.jp/cards/000329/card18341.html 安達が原の鬼婆々(余白録) 底本:『東北文化研究』第一巻 第一号、史誌出版社 1928(昭和3)年9月1日発行 http //www.aozora.gr.jp/index_pages/person1344.html 安達が原の鬼婆々異考 底本:『東北文化研究』第一巻 第二号、史誌出版社 1928(昭和3)年10月1日発行 http //www.aozora.gr.jp/index_pages/person1420.html 喜田申す 底本:『東北文化研究』第一巻 第二号、史誌出版社 1928(昭和3)年10月1日発行 http //www.aozora.gr.jp/index_pages/person1344.html NDC 分類:K913(日本文学 / 小説.物語) http //yozora.kazumi386.org/9/1/ndck913.html NDC 分類:380(風俗習慣.民俗学.民族学) http //yozora.kazumi386.org/3/8/ndc380.html 難字、求めよ 黒塚 「今の仙台在秋保温泉のあたり」? 『日本歴史地名大系・宮城県』には記載なし。 忠明 ただあきら 医者。 常忠の君の女 鬼筋 おにすじ? フツチ 老婆。 先縦 先達(せんだつ)か? むしとりほいほい 関《そき》 → 関《せき》 【せ?】 それなり → それきり 【き?】 以上2件。底本未確認。 スリーパーズ日記* 5日(木)『山形新聞』より。天童若松寺、4日未明の強風で樹齢1000年以上といわれる杉の巨樹が根こそぎ倒れる。幹周り6.15m、高さ31m。位牌堂の屋根が壊れる。 6日(金)ツバメ、倉津川に飛来。 7日(土)吹雪。県立図にてDVD観賞、『海上保安庁が見た巨大津波と東日本大震災復興支援』Vol.1。7月までに360名を救助。 8日(日)雪のち晴。若松寺へ行く。6 30着。倒れた開山杉を見る。 13日(金)スイセン、サンシュユ開花。キジムシロ、フクジュソウ、クロッカスが先週開花。 小山慶太『寺田寅彦』(中公新書、2012.1)読了。ごくわずか長岡半太郎や石原純や地球物理学関係の記述あり。今村明恒は登場しない。 『図説福島県の歴史』(河出書房新社、1989.10)を読んで最初に目につくのは貝塚、古墳、横穴墓の多いこと。南相馬には真野古墳群・横手古墳群・桜井古墳(全長74.5m)、浪江町には狐塚古墳・堂の森古墳、そしていわき市に玉山1号古墳(全長100m)。 復興構想会議のなかで赤坂さんや梅原さんが「鎮守の森」を提案。会津坂下には、ずばり鎮守森古墳がある。 仙台平野や福島の浜通りのように平地ばかりで近くに高台がないところでは、メモリアルと津波避難場所をかねて巨大な古墳型高台を築くというアイデアを思いつく。1800年近い耐久実績があること。海岸線に正対しなければ、津波の力を分散できる可能性もあること。 頂上部をグラウンドにすることで、平時の常時利用。緊急時にはヘリポート、避難物資配送拠点になる。 インドネシア、メキシコ、福島沿岸、地震あいつぐ。 4.5 4号、含ストロンチウム排水12トン、海へ流失。 4.10 清明の嵐。 2012.5.1:公開 2012.5.31:更新 玲瓏迷人。 poorbook G3'99/しだ 転載・印刷・翻訳は自由です。 カウンタ: - 名前 コメント
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MT*2_25-払田柵跡について二、三の考察/山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉 2010.1.9 第二巻 第二五号 払田柵跡について二、三の考察 山形県本楯発見の柵跡について ——出羽柵跡か国分寺跡か—— 一 緒言 二 本楯柵跡の型式と規模 三 出羽柵跡はこれを河南に求むべく、本楯柵跡は出羽柵の廃虚にあらず 四 本楯柵跡は出羽柵としては狭小に過ぐ 五 本楯柵跡は出羽柵としては型式的にして、防御設備薄弱に過ぐ 六 本楯柵跡は国分寺の外郭の廃虚なるべし 七 結語 喜田貞吉 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 【週刊ミルクティー*第二巻 第二五号】 (http //www.dl-market.com/product_info.php?products_id=50640) ※ ダウンロードサイト(http //www.dl-market.com)へジャンプします。 (680KB) 定価:200円(税込) p.172 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(81項目)p.432 飛び出せ! 目くそ鼻くそ! オリジナル版 ミルクティー*現代表記版 払田柵址について二、三の考察 払田柵跡について二、三の考察 (略)由来わが国には大陸にいわゆる城郭は発達しなかった。シナの古代史籍にも、国城郭なしと書いてあるのが普通である。いわゆる城郭とは村落都邑全体を擁護すべく設けられたもので、わが国にいわゆる城砦とは違う。わが国の城砦は太古の夷砦《チャシ》式のものから、近く戦国時代の大小名の城池に至るまで、たいていは豪族の居館に防禦工事を加えたものなるに過ぎない。斉明天皇の御代に飛鳥帝都の背後の山なる多武峯に石をもって周垣を築くのことが『日本紀』にあるのは、おそらくわが国における朝鮮式山城の最初のものであろう。天智天皇の御代には外寇に備うべく所々に大陸風の城郭が出来た。かくて「大宝令」には、東辺・北辺・西辺における諸郡の民居は城堡の中に安置せよとの規定が法文に示されている。蝦夷・隼人に対して、大陸風の村落保護の設備なのだ。西辺のことは措く。東辺・北辺すなわち陸奥の蝦夷・越蝦夷の地方にもだんだん内地の農民が進出する。それが蝦夷の襲撃を防ぐために集落を繞って防禦工事を施す。これが「大宝令」にいわゆる城堡なのだ。かくて平素はその中に安住し、農時には臨時に田屋住居をする。後に蝦夷襲来の虞れがなくなって、田屋が発達して各地に農村が散在するようになった。この払田の地は仙北平野の中央にあって、そこには真山・長森の丘陵があり、この平野に進出した内地農民の根拠地としてはきわめて適当の地だ。今の柵址はそこに設けられた集落擁護のために、取り敢えず造られたものと解するのが最も妥当であろう。 (略)由来わが国には大陸にいわゆる城郭は発達しなかった。シナの古代史籍にも、国城郭なしと書いてあるのが普通である。いわゆる城郭とは村落都邑(とゆう)全体を擁護(ようご)すべく設けられたもので、わが国にいわゆる城砦(じょうさい)とは違う。わが国の城砦(じょうさい)は太古の夷砦(チャシ)式のものから、近く戦国時代の大小名の城池にいたるまで、たいていは豪族の居館(きょかん)に防御工事を加えたものなるにすぎない。斉明(さいめい)天皇の御代(みよ)に飛鳥帝都の背後の山なる多武峰(とうのみね)に石をもって周垣(しゅうえん)を築くのことが『日本紀(にほんぎ)』にあるのは、おそらくわが国における朝鮮式山城(やまじろ)の最初のものであろう。天智(てんじ)天皇の御代には外寇(がいこう)に備うべく所々に大陸風の城郭ができた。かくて「大宝令(たいほうりょう)」には、東辺・北辺・西辺における諸郡の民居は城堡(じょうほう)の中に安置せよとの規定が法文に示されている。蝦夷(えみし)・隼人(はやと)に対して、大陸風の村落保護の設備なのだ。西辺のことは措(お)く。東辺・北辺すなわち陸奥の蝦夷・越蝦夷の地方にもだんだん内地の農民が進出する。それが蝦夷の襲撃を防ぐために集落をめぐって防御工事をほどこす。これが「大宝令」にいわゆる城堡(じょうほう)なのだ。かくて平素はその中に安住し、農時には臨時に田屋(たや)住居をする。後に蝦夷襲来のおそれがなくなって、田屋(たや)が発達して各地に農村が散在するようになった。この払田(ほった)の地は仙北(せんぼく)平野の中央にあって、そこには真山(しんざん)・長森(ながもり)の丘陵があり、この平野に進出した内地農民の根拠地としてはきわめて適当の地だ。今の柵跡はそこに設けられた集落擁護のために、とりあえず造られたものと解するのが最も妥当であろう。 2_25.rm (朗読:RealMedia 形式 440KB、3'33'') 喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939(明治4.5.24- 昭和14.7.3) 歴史学者。徳島県出身。東大卒。文部省に入る。日本歴史地理学会をおこし、雑誌「歴史地理」を刊行。法隆寺再建論を主張。南北両朝並立論を議会で問題にされ休職。のち京大教授。 ◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。 底本 払田柵跡について二、三の考察 底本:『喜田貞吉著作集 第一巻 石器時代と考古学』平凡社 1981(昭和56)年7月30日 初出:『秋田考古学会誌』第2巻第4号 1930(昭和5)年12月 山形県本楯発見の柵跡について 底本:『喜田貞吉著作集 第一巻 石器時代と考古学』平凡社 1981(昭和56)年7月30日 初出:『歴史地理』第58巻第1号 1931(昭和6)年7月 NDC 分類:212(日本史/東北地方) http //yozora.kazumi386.org/2/1/ndc212.html ※ ページ未登録。 年表 大化四年(六四八) 磐舟柵を築く。磐舟柵をおさめてもって蝦夷にそなえ、越と信濃との民を選んで柵戸を置くとあるのを初見。 斉明天皇の御代(六五五〜六六一) 飛鳥帝都の背後の山なる多武峰に石をもって周垣を築く(『日本紀』)。おそらくわが国における朝鮮式山城の最初のもの。 斉明天皇四年(六五八) 阿倍比羅夫が、舟師をひきいて遠く津軽、北海道にまで経営の歩みをすすめる。 天智天皇の御代(六六八〜六七一) 外寇に備うべく所々に大陸風の城郭ができる。 天武天皇十一年(六八三)四月 越蝦夷伊高岐那ら、俘人七十戸(ちなみにいう、天武天皇十一年の俘人七十戸は、現存の『書紀』に七千戸とある。今『釈日本紀』の文に従う)をもって一郡となさんと請うて許さるる。 持統天皇三年(六八九) 陸奥優 IMG gaiji src="山+耆.gif" 曇郡の城養蝦夷・脂利古男麻呂が、出家修道を請うてゆるされた(『日本紀』)。 文武天皇二年(六九八)十二月 越後国をして築五十一年目の磐舟柵を修理せしめ、 文武天皇四年(七〇〇)二月 越後、佐渡の二国をして石船柵を修営。 慶雲二年(七〇五) 威奈大村・越後城司に除せられて、北疆の蝦虜の懐柔鎮撫に任じられる。 慶雲三年(七〇六)閏正月 威奈大村、越後守に任ぜらる。墓誌には、その前年十一月、越後城司に除せらるとある。 慶雲四年(七〇七)四月 威奈大村、越後城に卒したと言わるる。 和銅元年(七〇八)九月 はじめて出羽郡が設置。 和銅初年(七〇八) 大宝の度地制がおこなわれて、三百歩すなわち五町をもって一里とした。 和銅二年(七〇九)三月 佐伯石湯を征越後蝦夷将軍とし、紀諸人を副将軍とし、遠江・駿河・甲斐 信濃・上野・越前・越中など、諸国の兵を徴発して、陸奥鎮東将軍たる巨勢麻呂らとともに、東山・北陸両道より蝦夷の征討に向かわしめた。 和銅二年(七〇九)七月条 出羽柵の名の初見は『続日本紀』。朔日、諸国をして兵器を出羽柵に運送せしむ。事実はその以前よりあったと考えられる。 和銅二年(七〇九)七月十三日条 越前、越中、越後、佐渡の四国をして、船一百艘を征狄所に送らしむ。 和銅二年(七〇九)八月 正副将軍入朝して優寵禄をたまわるのことあり。 和銅五年(七一二)九月 越後の北部を分かって出羽国を設置。 和銅六年(七一三) 尺度制改定。後に条里制の実施。 和銅七年(七一四)二月 出羽国をして養蚕せしむ。 和銅七年(七一四)十月 尾張・上野・信濃・越後などの国の民二百戸を出羽柵戸に配す。 霊亀二年(七一六)九月 中納言巨勢麻呂の奏上により、出羽の土地膏腴、田野広寛なるも、吏民少稀にして狄徒いまだ馴れざるがために、随近の国民を出羽国にうつして、狂狄を教喩し、かねて地の利を保たしめんとの請がゆるされて、陸奥の置賜・最上の二郡、および信濃・上野・越前・越後四国の百姓各百戸を出羽国に隷せしめた。 養老元年(七一七)二月 信濃・上野・越前・越後四国の百姓各一百戸を出羽柵戸に配す。 養老三年(七一九)七月 東海・東山・北陸三道の民二百戸を出羽柵に配す。少なくも六年間に八百戸の民は柵内に移された。(『続日本紀』) 天平五年(七三三) 出羽柵、秋田に移る。 天平七年(七三五) 讃岐国の田図、条里に関する史料の現存する最古。 天平十三年(七四一) 「勅」によるに、僧寺には封五十戸、水田十町、尼寺には水田十町。 天平十九年(七四七) さらに増して僧寺水田百町、尼寺五十町となる。 天平勝宝元年(七四九) 僧寺に一千町、尼寺に四百町の墾田をゆるされた。 天平宝字二年(七五八)条 雄勝、柵をつくる。翌年は城をつくる。 承和四年(八三七)六月条 『続日本後紀』小野宗成の請によりて出羽国最上郡に済苦院一処を建立することが聴された。 承和四年(八三七)六月 小野宗成の奏請に対する勅書の文に出羽に国分両寺が見える。その後久しからずして廃滅したものか、『延喜式』諸国国分寺料の項にその名が見えない。 承和六年(八三九)八月 田川郡司の解文に「この郡の西浜府に達するの程五十余里、もとより石なし」。 貞観十三年(八七一) 飽海郡の名の初見。 元慶(八七七〜八八五)夷乱 秋田河をもって華夷の境界とせんとの講和条件まで持ち出された。 延喜(九〇一〜九二三)のころ 国分寺も庄内に求めねばならぬはずである。しかしそれもには廃滅していたらしく。 明治二十年代(一八八七〜) 多くの直立せる掘立柱の根を発掘。 明治四十年(一九〇七)ころ 本楯柵、柱根二個発掘。 大正初年(一九一二) 飽海郡なる遺跡は本楯村城の輪にあり、耕地整理をおこなって、台地を削平して水田となしたさいに、たまたま柱根および廃瓦・礎石などが発見。 大正十一年(一九二二)末 第一次の踏査。 大正十二年(一九二三)一月 喜田貞吉『社会史研究』第九巻第一号所載「庄内見聞録」中に、ほぼその所見を発表。 大正十二年(一九二三) 阿部正巳の東道のもとに実地を視察。 昭和四年(一九二九)末 秋田県仙北郡高梨村払田の地において、延長約一里に渉れる古代の木柵跡の埋没存在せることが、後藤宙外君によりてはじめて紹介。 一九三〇年はじめ 後藤宙外から簡単なる調査の報告を受ける。 一九三〇年四月末 深沢・大山(宏)・大山(順造)・細谷らと、右の後藤君の東道で視察。 一九三〇年五月はじめ 喜田貞吉、浴場で転倒。四か月あまり病床。 一九三〇年十月下旬 文部省から上田三平が出張して柵跡の大発掘を試みる。 一九三一年四月初旬 実地にのぞんで調査の跡を視察。 一九三一年 喜田貞吉「寺院建築と住宅建築、特に掘立柱の発見について」なる一篇を草し、これを本誌(『歴史地理』)前号(第五七巻第六号)に掲載。 一九三一年五月二十三、四日 出羽柵跡大発見の報があったので、まだ水田に水を張らぬ以前にと、余輩はさっそく実地について親しく郷土研究会の方々の調査の跡を拝見。 スリーパーズ日記 9日(土)くもり。NHK山形放送局の大型液晶テレビにて再放送を見る。クレジットに「協力・身延山久遠寺」。ロケ地だろうか。久遠寺=日蓮宗(法華宗)、法華、妙見、北斗、北辰一刀流……勝・西郷の江戸無血開城談判のあったのが同じく日蓮宗の池上本門寺。 10日(日)『アデノゲン』を購入。6800円。『ヘアーグロアーS』『リアップ』『黄金宮』と試してきて、ついに。長らく、裸体で街を歩いているようなはずかしさと冷笑をあびてきたから、自分一人だけが笑い者になるのは、無視すればいいことだからまだたえられる。けれど……。執着のつらさ。メンソールの心地よさ(泣)。 2010.1.12:公開 2010.1.14:更新 目くそ鼻くそ/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 カウンタ: - 『広辞苑 第六版』では、阿倍比羅夫を「あべのひらぶ」、熟蝦夷を「にきえみし」と読んでいる。これまで、同様の読みを他に見た経験がないので、それぞれ慣例のまま「あべのひらふ」「にぎえみし」としておく。 -- しだ (2010-01-14 00 18 07) 名前 コメント